【あたり前を喜ぶ~井村和清さん「あたりまえ」】2020031
32歳の若さで亡くなられた医師、
井村和清さんの「あたりまえ」という詩をご紹介します。
■あたりまえ
こんなに素晴らしいことを、皆はなぜ喜ばないのでしょう。
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手を伸ばせば何でも取れる
音が聞こえて声がでる
こんな、幸せはあるでしょうか?
しかし、誰もそれを喜ばない。
あたりまえだ、と笑ってすます。
食事が食べられる
夜になるとちゃんと眠れ、 そして又朝が来る。
空気を胸いっぱいに吸える。
笑える、泣ける、叫ぶこともできる。
走りまわれる。
皆な、あたりまえのこと
こんな素晴らしいことを、皆は決して喜ばない。
その有難さを知っているのは、「それを失くした人たちだけ…」
なぜでしょう?
あたりまえ
常日頃から、物が溢れ、物質的な豊かさから様々なことが「あたり
目が見え、音が聞こえ、手・足が不十なく動くことをができるだけ
様々なことがあたり前となっている今「ありがたい…」と思うこと
意図して機会を作らない限りは先ずありません…。
今の時代は特に、就活生など若者を見ていて「物の豊かな時代に生
生まれた時には、既に物が溢れていますから物があることは「当た
ところが、この詩にあるように私たちが当たり前だと思っているも
本当に掛け替えのないものばかりです。
以前見た映画に「私の人生なのに」があります。
新体操のスター選手として将来を期待されてきた少女が、ある日突
憧れていた夢を突然断たれた主人公は、絶望と孤独に苛まれ、塞ぎ
しかし、そんな彼女の事を支えようとして現れた幼馴染…
家族や友人、そして幼馴染の支えから、彼女は、絶望と孤独の中か
企業にしてみれば、
社員がいてくれること…
お客様がいてくれること…
商品・サービスを必要としてくれるひとがいること…
我が社をささせているパートナー企業がいること…など
全て、あたり前ではありません。
ところが、私たちはそれを当たり前のように思ってします。
私たち人間の思い上がりであり、愚かさであると思うのです。
目の前のあたり前が、当たり前でいてくれることを心の底から喜び
今日は、ホワイトデーですね!!
単なるお返しではなく、日頃から支えて頂いている方に感謝を伝え
■作者プロフィール
井村和清 1947年富山県生まれ。
岸和田徳洲会病院の内科医として勤務。
1977年、右膝の悪性腫瘍の転移を防ぐため、右足を切断。
しかし、腫瘍は両肺に転移。
1979年1月、32歳の若さで亡くなる。
死の直前まで綴った手記が、本人の死後「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ
「あたりまえ」は亡くなる直前に作られたものです。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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